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2024-03

「この世界の片隅に」を見る。 - 2018.01.12 Fri

 本記事では久しぶりにアニメの考察記事を執筆する。前書きやあらすじは省く。





 「すず」について

 「すず」という人物の理解を少しでも進めておくことは、この作品を読み解く上で特に重要である。主人公なのだから当たり前だと思われるかもしれないが、とにかく理由は後述する。
 
 「すず」は絵の巧い18歳の少女だが、彼女の描く絵は抽象画というのかどうかは知らないが、写実的ではない。絵というモチーフがたびたび現実からの逃避のあらわれとして表現されることから、「すず」もそうなのではないか、とあのおっとりぼんやりした性格のこともあいまって、早とちりしてしまいそうになるが、これはよくない。なにしろ「すず」は、戦時下に絵を描くことはほとんどなかった。もし「すず」の人物的性質が現実逃避という安易なキャラクタであったのならば、「すず」は辛い時、現実を見据える眼を持たず、ことごとく画用紙に向かっていたはずである。

 「すず」の絵は、彼女が呉の「北條周作」の家に嫁いでからしばらく描かれることはなかった。北條家になじみ、しばらく経って、ようやくペンをとるようになったが、戦時下となり、直接的に爆弾が降り注ぐようになってからは、描く機会も失われた。ついには、利き腕も失うことになる。

 こうしてみると、「すず」が絵を描いたのはどんな時か、だいたいわかる。彼女はほとんど誰かに頼まれたときに描くわけだが、それには彼女の心のゆとりというようなものが必要で、あるいはまた、彼女に絵を描いてほしいと頼める人物と、なごやかな環境が必要で、現実逃避というよりは、絵画というものの本質に近い、心の情景のひとつの表現方法のようなものであることが、だいたいわかる。
 心の情景などとぼかしてみたが、これは言いかえれば、その人間のもつ世界観・感性にもとづく風景ということだ。小難しい話にはなるが、私が見ている世界、と読者の見ている世界が必ずしもまったく同一に見えているという保証はどこにもなくて、たとえば直近の出来事でいうなら、交際相手のいる人間にとってのクリスマスの街景と、交際相手のいない人間にとってのクリスマスの街景では、同じ街並みのはずなのだが、ちょっと違う。もっと具体的にいうなら、色盲異常の人間にとっての信号機の色と、そうでない人間にとっての信号機の色はいささか違う。その人間のもつ世界観・感性という話からはずれてしまったが、ようするに、「すず」にとっての世界の見かたというのがまずあって、他の人とは微妙にずれたその感性が、綺麗な絵を描かせている。「すず」は芸術肌の人間なのではないかと私は見る。これは、「この世界の片隅に」のメイン・テーマに迫る、本記事においてとりわけ重要な仮定である。



「すず」の世界観

 「すず」の世界観とは一体どのようなものか、ということについて私から説明できることはあまりない。私は「すず」ではないからだ。「この世界の片隅に」は、人物の描写にしても、当時の風景にしても、セリフ回しにしても、どれもがアニメとは思えないほど自然な出来だが、だからこそ、よくあるアニメのキャラクタとして、ひとりの人物を推しはかるわけにはいかない。少なくとも、「すず」が片腕を失う前は、「すず」という人物の行動、言動に掴みどころはない。おっとり・ぼんやりした性格、と感じるのが精々である。

 「すず」の世界観をほんのばかし覗けるシーンもいくらかある。座敷わらしがでてきたり、寡黙な髭モジャの大男がでてきたり、いずれもこの世のものとは思えない。空想なのではないかと考えたいところだが、髭モジャの大男の担ぐ柳行李(?)には、まだ幼かった「北條周作」の姿もあった。

 あれらの正体はなんだったのか、原作のことは知らないが(関係ないが)、少なくとも映画の中で言及されることはなかった。される必要もない。あれらの正体を知っているのは「すず」だけで良い。私たちの頭の中のことが他人にわからないように、「すず」の世界観は「すず」だけのものである。

 「すず」に好意を寄せる二人の男性が、ともに「すず」の世界観の一端を覗いている(共有している)というのは面白い。「北條周作」だけでなく、「水原哲」もまた、子どものころに絵を描いてもらっていた。



「すず」の結婚

 「この世界の片隅に」を評価する視聴者の中には、北條家での家族交えてのほのぼのとしたやりとりに心惹かれた者も多いと思うが、「すず」にとって、この作品にとって、結婚とは何だったのか、あらためて考えてみたい。

 これまで、「すず」が彼女独特の世界観をもっており、その表現方法として、絵を描くということを論じてきた。「すず」の世界には、座敷わらしのようなかわいい妖怪がでてきたり、子どもを運ぶ奇妙な大男がでてくる。実家暮らしであった「すず」をとりまく環境は、突然の縁談を機に大きく変わったわけだが、「すず」はその環境の変化についていけず、「10円ハゲ」を頭につくるほどのストレスを抱える。人間関係とは互いの価値観・感性・世界観をぶつけあい、調和させていくものだから、四六時中一緒にいなければならない間柄ならばなおのこと、独特の世界観をもっている彼女が、急に見知らぬ他人の中に放り込まれて、耐えられるはずがない。

 結婚は、「すず」には早すぎた。彼女は一度休みをもらい、実家に帰ったわけだが、視聴者の中には本当に結婚が破談になったのではないかと疑った者もいたはずだ。あのミスリードの演出は、「すず」が精神的にきわめて危うい立場にたたされているということを視聴者に示唆する点において、意味がある。

 精神的に危ういというのは、ようするに、結婚によって「すず」の世界観がむりやり打ち壊される寸前だった、ということだ。嫁にとられたが、相手の男性の家族との相性があまりよくなかったとか、気疲れするとか、そういう話はいくらでも聞く。

 結果的にはうまくいった結婚だったが、その理由としては、「すず」を「すず」の世界にかろうじて繋ぎとめていた「北條周作」の役割が大きい。何より二人の馴れ初めがよかった。先に述べたように、「北條周作」は、「すず」の世界観に少しでも触れたことがあった。つまり、「すず」の世界に対する理解があったのである。

 だから、二人の結婚は、急展開で、かなり強引のようでありながら、「北條周作」が「すず」の世界に共感した先の、純愛である。もしそうでなければ、「すず」は北條家に嫁いだ後、二度と絵を描くことはなかっただろう。



 「晴美」は死ななければならなかったのか

 「晴美」は、「すず」の結婚生活を支えた一人で、「黒村径子」の娘であった。かなり大人びた性格で、軍艦の名前に詳しく、「すず」ともよく話した。「すず」は空襲のおさまった頃合い、「黒村径子」を探しに「晴美」を連れて外に出かけていくが、不発弾に気付かず、利き腕と「晴美」を失う。

 もともと、戦争映画でなくとも、人の死というシーンについては、この上のない配慮を要する。泣けるアニメ・感動、というテーマにつきまとうのは大切な人間の死であって、そうした作品の是非は、何度も繰り返し行われ、腐れきったそのシーンを、どれほど上手に乗り切れるかにかかっている。

 「晴美」が死ぬシーンは、そこまで上手くない。ありとある戦争映画の焼き直しのようで、予定調和とすら言えて、ある種の白々しさのようなものを視聴者は感じる。「すず」が泣いているシーンにしても、人によっては、白けてしまったかもしれない。

 「晴美」は死ぬべきではなかったのか。戦争映画といえど、人を死なす必要はどこにもないのだ。近年公開されたクリストファー・ノーランの「ダンケルク」では、第二次世界大戦のダイナモ作戦を、人を殺さず、血も流さず、描写していることで話題となった。

 「晴美」を失ったことで、「すず」の、これまでのおっとりぼんやりした性格はなりをひそめ、とたんに感情を露わに表現するようになる。彼女の声をあげて泣くシーンなどは、視聴者からすれば意外で、胸が打たれるが、それは、彼女が泣いている理由がわかるからだ。わかった気になってしまうからだ。「晴美」を失ったことは、「すず」の心を完全に戦争一色で満たし、本来芸術肌の、ひとりの”人間”である「すず」の世界観を完全に打ち壊し、ただの戦争被害者というキャラクタの枠におさめてしまった

 「黒村晴美」は死ななければならなかったと私は思う。いささか顰蹙をかいそうな発言であることは承知しているが、「黒村晴美」が死ななければ、「すず」にとって、戦争は、何の意味も持たなかった。そして、「すず」がそうであることは、視聴者である私たちにとっても、この作品において戦争は、何の意味も持たなかったことになる。そしてこのことは、本来人の死の悲しみを訴えるはずの反戦映画が、それを伝えるために、作中で人を殺さなければならないという最大の問題を提起する。



「この世界」とはどこか

 すずにはすずの、彼女独特の世界観があることはこれまで論じてきたとおりのことだ。すずだけでなく、登場人物の多くは彼ら自身の世界を、アニメらしくない自然な演技のなかで、キャラクタではなく一人の人物として表現する。彼らにそれぞれの世界観があるとするなら、「この世界」として、単一の世界の枠組みを規定し、単純化させるのは、何になるか。

 私たちが知覚している世界のつながりがどれほど薄かろうと、互いに共有している領域は確かにある。すずの描いた絵は美しく綺麗な抽象画のようだが、大きな枠組みとしての空間とオブジェクトを表面的に捉えた時、描いているものがわかる。それはちょうど集合のベン図のように、大多数の人間にとって、共通して認識されている世界の枠組みだ。

 すずの芸術的な感性は、ずずを、限りなく、この世界の枠組みから解き放つ。子どものほうが、ステレオタイプな視点にとらわれず、自由な発想ができるなどというが、すずの感性は子どものそれに近いところがある。自分と違う他人と触れることで、つまり、他の世界観を迎合し、調和を果たすことで、子どもはその尖った感性を丸くし、遂には失い、社会に溶けこんでいくものだ。すずにとっての結婚は、すずの世界観を強引に打ちこわしかねなかったと私が強く述べたのは、そういうことである。

 結婚はうまくいった。すずの世界観に少しでも理解のあった結婚だった。ところが戦争はそうでなかった。晴美を殺した戦争は、すずの世界との調和の一切を許さなかった。利き腕を失ったのは、彼女の世界観、感性が失われたことの象徴である。そしてそのことは、すずを、歴史や文献で聞き知っているだけの私たちにもわかったつもりになれる、一般化された、「この世界」の被災者とした。



「この世界の片隅に」

 すずとこの世界とのつながりは、とても希薄であった。結婚という、人生の大きな岐路を前にしても、流されるままぼんやりとしている彼女にとって、この世界は、薄い膜をとおして見るかのように、現実感がなかった。

 戦争によって、晴美を失ったことの悲しみと後ろめたさから、それ一色に染まらざるをえなかった彼女は、言ってしまえば、この世界の新参者だ。ベン図でいう、輪と輪が重なりあったところを飛び出したばかり、あるいは、彼女の輪がすっかり取り払われて、この世界に投げ出された格好になったのか、わからないが、ともかくそこは、この世界の片隅に違いない。世界観を失い、感性を失った彼女は、晴美を失った悲しみと向き合って、「この世界の片隅」で生きていく覚悟をきめた。

「この世界の片隅にうち(私)を見つけてくれてありがとう」。こうしてみると、この台詞には意外と重い響きがある。戦後の動乱の只中だ。おそらく、すずも自分が変わったことに気がついている。戦争をその身で体験した彼女は、以前の彼女ではない。それでも「北條周作」は愛してくれるか、そういう純粋な色恋の切なさもあったことだろうと私は思う。



これから

 この作品の設定で秀逸なのは、舞台である呉市が、戦争の中心ではなかったという一点だ。この設定は、戦争のはじまりが、「すず」の世界観をすぐさま奪い去るものでなかった、というだけでなく、作品の終幕が、視聴者に、被災者のこれからの人生をある程度予見させようとする。映画が終われば登場人物の人生が終わるのか、というと、そうではなくて、私たちの心の中というでなく、現実的に被爆した被災者はまだ生きている。

 姉は放射能に犯され、おそらく死ぬ。「すず」の境遇を考えると胸が痛むが、変わっていく彼女のそばには常に、変わらない愛情で支え続ける「北條周作」の姿があるのだろう。





おわりに

 ここまで、「この世界の片隅に」について、特に「すず」の人物的性質を礎として論じてきた。本記事における一連の考察においては特に、私は意図的に、誰にでも納得のいく解釈を避けてきたつもりだ。

 テーマだけでなく、作品の解釈が人によってさまざまであるということが、この作品の出来を示している。解釈とは、一個人が、その人の世界観というフィルタを通して作品を述懐したものである。優れた作品について語ることの面白さはここにあるわけだ。

 もし、仮にも本記事の考察を読んで共感した方がいるのであれば、その時読者は、私の世界の一端を覗き、共有していることになる。しかし、私の世界の見えが正しいわけではない。そして、どれだけ論理的な反論を重ねられようとも、私にとっての作品の解釈は、私にとって、限りなく正しい。また、私の反論がどれだけ的を射ていようと、誰かにとっての解釈を打ち壊すことはできない。してはならない。それはちょうど、「すず」の世界に対する「すず」の解釈が、誰にも侵されてはならなかったように。


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